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脳梗塞コラム

第7回 緩慢な脳梗塞で倒れた実父の介護を続けて7年
     来生えつこさん(作詞家)の場合

[2013.05.27.]

「夢の途中――セーラー服と機関銃」「シルエットロマンス」など、実弟であるアーティスト来生たかお氏とタッグを組み、かずかずのヒット曲を世に送り出してきた作詞家の来生えつこさんは、脳梗塞で倒れたお父様の介護を7年間経験しました。売れっ子作詞家として多忙な日々を送りながら、お父様の介護をなさった来生さんに、脳梗塞の家族を介護した体験を伺いました。

だんだんと目が見えなくなった父。まさか脳梗塞とは!

来生えつこさんは、自分たち夫婦とご両親の4名で2世帯住宅に暮らしていました。1階はご両親、2階は来生さんご夫婦と、つかず離れずの生活をしながら、休日には弟の来生たかおさん夫妻を招いて家族揃って食事をするなど、忙しくても穏やかな日々が続いていました。ところが――。
「父が73歳のとき、目が見えないといい始めたのです。1993年のお正月のことでした。家族麻雀の席で、父はパイが見えないし疲れる、といって参加しなかったので、ちょっと変だなと思いました。そのうち、駅の電光掲示板が見にくいとか、手足が少ししびれるといいだし、血圧もやや高めだったので近くの病院に通っていました。9月になると、視力の低下が急に進み、電話機のプッシュボタンがぼやけて、電話がかけられない、と眼科に通っていました。視力が衰える年齢でもあり、だれもが目に問題があると考え、脳梗塞など思ってもみませんでした」

当時はまだ、脳梗塞の初期症状や前兆に関する情報が少なく、急性期の治療法も今ほど進んでいなかった時代ですから、無理もありません。

10月になると、お父様の視力はさらに低下したため、ほかに原因があるのではと推測した眼科医の紹介で、総合病院を受診しました。
「CT検査の結果、視力低下の原因は脳梗塞によるもので、脳につながる視神経が梗塞しているとのことでした。すでに起こってしまった脳梗塞を治す手立てはないそうで、そのままとくに脳梗塞の治療は受けずに帰ってきましたが、視力の低下以外にはとくに症状もなかったため、家族も現状維持を願うばかりでした」

左半身が麻痺して、歩けなくなる

その後、知人の紹介で都内の大学病院を受診しましたが、受診から数日後の10月18日に、それまでとははっきり違う症状が現れました。
「夜中にトイレに立った父が急に歩けなくなった、と母が2階まで呼びに来ました。父は、だれかの支えがないと歩けない状態でした。でも、舌が少しもつれていたものの、普通に受け答えはできていました。救急車を呼ぶかどうか迷いましたが、『あんパン、食べる?』と聞いたところ、『食べる』と答え、支障なく食べていたので、朝まで様子を見ることにしました。ところが朝になると、左側の顔面が完全に引きつり、ろれつも回らず、お茶を飲んでも唇の左端からこぼしてしまう状態になっていたのです」

10月20日、大学病院へ行くと空きベッドがないとのことで、急遽別の病院に入院することになりました。
「脳梗塞の発作というと急なイメージがありますが、父の場合はまず視神経に梗塞が起き、その後左半身に徐々に麻痺が来て歩けなくなった、という緩慢な進行の脳梗塞でした。こういうゆるやかなものもあると知っていれば、私たちの対応も違っていたでしょう。早く予兆に気づいて、脳神経外科や神経内科の専門医にかかっていれば……。今思うと、それが悔やまれます」と来生さんは述懐します。

1カ月半の入院中は、新たな血栓を防ぐ薬物治療とリハビリがメインになりました。お母様は毎日病院に通い、来生さん夫妻とたかおさん夫妻も交代で散歩に連れ出したり、食事介助をしたりと、毎日だれかがそばにいるようにしたそうです。
「父の好きなお寿司を差し入れ、ラジオをセットし、三波春夫のテープを聴かせると喜んでいました」

入院先の病院は完全看護でしたが、常に一人ひとりの患者さんに目が行き届くわけではありません。じつは入院直後、お父様は麻痺した左足をベッドの柵にからませてしまい、大変なことがありました。麻痺があり、視力も失ったお父様にとって、慣れない病院での生活には思いがけない危険も潜んでいたのです。だからといって、家族が四六時中見守るのには限界があるので、そのときは家政婦紹介所を介して付き添いをしてくれる人をお願いしたそうです。(*1)

緊急事態に遭遇すると目の前の対応に追われて、つい大局を見失うものですが、来生さんは腹を据え、冷静沈着かつ速やかに打てる手を打ち、思い切りよくことを進めていきました。「起こっちゃったものはしょうがない」と来生さんはいい意味で割り切り、病気を嘆くのではなく、これから起こりうることをシミュレーションして、ベストな対策を考え、すばやく実行していきました。

懸命なリハビリの結果、歩けるようになる

11月になると、歩行訓練などのリハビリが始まりました。来生さんもお父様といっしょに病院近くの公園などを散歩したそうです。視力は両目とも健常時の16分の1ほどしかなく、ほとんど見えない状態なのですが、ときどき焦点が合う瞬間があって、花の名前や色をあてることもあったそうです。そんな家族の見守りとご本人の頑張りで、リハビリをした結果、当初歩けなかったお父様が、歩けるようになっていきました。
「左足の感覚が多少鈍くなっていたので、散歩の途中で電信柱に足が触れてもわからなかったようでしたが、その頃の父はとても意欲的で、手すりにつかまって歩くリハビリを頑張っていましたね。よほど歩きたかったんでしょう。その成果が徐々にですが出てきて、ゆっくりと歩けるようになったのです」

家族の連係プレーで自宅介護をスタート

12月に退院し、自宅での介護がスタートしました。介護保険制度がなかった当時、来生さんは市役所の福祉課に問い合わせ、退院後の準備を着々と整えたといいます。浴室やトイレ、玄関に手すりをつけてもらい、介護ベッドも用意しました。

自宅での介護を始めて最初の頃は、食事と排泄、入浴時の介助なども試行錯誤しながら、工夫していったそうです。
「父は右手しか使えず目も見えなかったので、食事のときは母と2人で、右手に持ったスプーンの上にご飯とおかずを乗せてあげました。排泄に関しては自力でトイレまで歩いて行き、なんとか用を足せるようになっていましたが、間に合わないこともあり、見守りや付き添いが必要でした。入浴は、浴室まで夫に誘導してもらい、私が介助して浴槽に入れ、洗い、母がバスタオルで拭いてパジャマに着替えさせるという連係プレー。便秘気味だった父の摘便(*2)は私がしていました」

弟のたかおさん夫妻は、病院の送り迎えなどの外回りを担当し、来生さんのご主人は夕食の支度とベッドの設置や機械関係の配線などを担当。このような分担は、特別に打ち合わせをしたわけではなく、あうんの呼吸でそれぞれの役目を果たしていったそうです。

介護の主役である母親のストレスを減らす工夫を

当時は、現在のような介護保険制度がありませんでしたが、来生さんは市の福祉課が提案した、ヘルパーさんの派遣、デイホーム、ショートステイと3つのサービスを迷わず利用しました。そのとき念頭に置いたのは、メインの介護者の負担を軽くすること。この場合ではお母様の負担軽減を意識しながら、1年がかりで来生家の介護システムをつくっていったそうです。
「介護のシステムに家族が慣れて、スムーズに回り始めるまでは、それなりに時間がかかります。退院後しばらく、リハビリ療法士さんから指導を受けたヘルパーさんが来て、麻痺した左手でクルミを回す運動などをさせるのですが、父は疲れるからといやがり、最後には怒り出してしまいます。母もあれこれ指導されるので、煩わしいようでした」

自宅介護も2年目くらいから、ヘルパーさんの仕事は生活介助が中心になり、週2回デイホームに行く日も決まって、リズムができてきたといいます。

介護の中心者である母親の負担軽減を第一に考えていた来生さんですが、お母様は予想以上にストレスを感じていたようです。
「母は、ヘルパーさんや医療職の方など他人が家に入ることに相当ストレスを感じていたようです。ヘルパーさんなどが来る日は、父の服装もパジャマからズボンとカーディガンに着替えさせたり、部屋を掃除したり、おもてなしとしてお茶を出したりと、何かと気を遣っていました。医療職の方の説明を聞き、指導されるのも負担に感じていたらしく、台所に走り込んで泣くこともありました」

そこで、来生さんは、お母様が心身ともに休むことができる避難場所として、近くにアパートを借り、家事の負担を軽くするために家政婦さんを依頼したそうです。さらに、ちょうどその頃始まった食事サービスを週3回、夕食だけ頼むことにしました。また、お母様が好きな旅行に参加できるように環境を整えて、ストレス発散の機会を増やしたといいます。
「そのうち母も介護する日常に慣れて来たのか、気持ちも安定してきたようです。元気な頃は母と趣味が合わなかった父も、倒れてからは、『母さんは?』『母さんどこいった?』 と、全面的に母を頼りにしていました」

ときどきお母様はお父様を喫茶店に連れて行き、お父様の好物のコーヒーとサンドイッチで昼食を済ませていたそうです。そんなお母様の様子を見ていて、介護もこのくらい柔軟にすればいいのだ、と教えられたといいます。外食が可能なら、介護者は食事づくりから解放され、介護される側も気分転換になるでしょう。介護は世間体より当事者の都合を優先して進めればいい、と来生さんは強調しています。

目を治したい、と父は繰り返していた

お父様はリハビリの効果で歩けるようにはなったものの、視神経のダメージと左手の麻痺は残り、左腕は直角に曲がったままでした。理解力もだいぶ落ちてしまったそうですが、
視力を取り戻したいという願望は、7年間変わらずに持ち続けていたそうです。
「目だけは、何とか見えるようにしたいと、ずーっとこだわっていましたね。目の治療をしたいから医者に連れて行け、とよくいっていました」

来生さんは、「お父さんの目は脳から来ているから、治らないんだよ」と話したそうですが、それでも何度か、同じ問答を繰り返したといいます。
「やっぱり脳梗塞の後遺症が視神経にでたというのは、その後の生活に大きく影響しましたね。目が見えさえすれば、右手は使えるんだし歩けるのだから、1人で外出もできたはずです。本人も、『目さえ見えれば』と思っていたでしょう」

脳梗塞を発症した人は、家に閉じこもるよりも外へ出て社会的なつながりをもっていたほうが、楽しみや生きがいを感じ、リハビリへの意欲も生まれると聞きます。たしかに、目が見えればお父様の行動範囲も広がったかもしれません。しかし、介護される側の切なる願いがどうにも叶わないことがあるのも現実です。そんなとき、介護する側も切ないものですが、つらい思いを深く受け止めて共有するだけでも救いになるのではないでしょうか。

来生さんはお父様と過ごすときには、共通の話題を選んでコミュニケーションを図っていたそうです。
「NHKラジオの『ラジオ深夜便』という番組が好きだったので、よく聴かせていましたね。また、喫茶店に行くと、環境が変わって刺激になるのか、昔のお祭りのことなどをよく話してくれました。父は、若い頃に経験した軍隊の話や会社の話などは不思議としなかったので、私もその話題には触れず、ふだんはお互いが好きな野球のことなどを話しました」

今できることは何か? 答えを探し行動する

「父は、闘病を始めて7年目に、胃と肝臓の手術をした後、脳梗塞が悪化して帰らぬ人となりましたが、今振り返ると、多少の不自由はあっても概ね幸せだったのではないかな、と思っています」

現在、来生さんは、高齢になったお母様の介護を始めたばかり。お父様のときにはなかった介護保険のサービスを利用して、新しくお母様の介護システムをつくっていかなくてはならないといいます。

脳梗塞のご家族の介護をされる方へのアドバイスをお願いすると、
「繰り返しになりますが、介護保険のサービス(*3)など、利用できるものはできるかぎり利用することですね。そして、感情的、感傷的にならないこと。かわいそう、と感傷的になり、感情のままに動いていては事態が迷走するばかり。介護する側、される側にとってこれはいいことか? 今できることは何か? を問いかけて、ベストの答えを探し、行動に移す。それに尽きるのではないでしょうか」と語り、自宅で待つお母様のもとに急ぎ足で帰っていきました。

(取材日:2013年3月5日)
【参考書籍】『突然失明して半身麻痺になった父を看取って』(大和書房)

(*1)現在は、患者負担による付添看護は認められていません。
(*2)摘便とは、直腸内に便がたまっているものの、自然排便できない人に対して、肛門から指を入れ、便を摘出する行為をいいます。
(*3)介護保険サービスは、通常、介護保険に加入している65歳以上の方が利用できますが、40〜64歳の方であっても、脳卒中の後遺症で介護サービスが必要であれば申請することができます。ただし、介護保険に加入していなければ利用できません。

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