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脳梗塞コラム

第3回 「寡黙なる巨人」の目覚め
         〜国際的免疫学者・多田富雄氏の脳梗塞体験

[2009.09.30.]

※多田富雄氏は、2010年4月21日ご逝去されました。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

67歳、旅先で脳梗塞の発作に見舞われた

サプレッサーT細胞を発見し、国際的な免疫学者として知られる多田富雄氏が、脳梗塞の発作に見舞われたのは2001年5月3日、67歳のときでした。旅先の金沢で、前から気になっていた喘息のような症状について漢方医の診察を受けていたところ、突如、口がきけなくなり、手足の力が抜けて診察台のほうへ倒れこんでしまったのです。ただし、この間意識を失うこともなく、到着した救急車に運びこまれるときには、手足の力も戻っていました。
緊急搬送された金沢医科大学病院で、ただちに検査と診察、そして治療が始まりました。多田氏は病状のただならぬことは察したものの、夕刻、東京から駆けつけた奥様に対しては「もう大丈夫、もう大丈夫」と応えていたとのことです。

その日の夕方に2回目の発作が起きた、が一過性だった

2回目の発作に襲われたのはその日の午後5時過ぎでした。病院の夕食を食べていたとき、金縛りにあったように手足が動かなくなり、身体の自由が失われて再びベッドに倒れこんだのです。
しかし、このときも一過性脳虚血発作でした。医師が駆けつけたとき、多田氏の症状は嘘のように消えていたのです。
慌ただしくMRIやCTなどの検査が追加され、抗凝固剤などが投与されました。それでも奥様を相手に冗談を言っているうちに、睡眠剤のせいか深い眠りに落ちていったとのことです。
多田氏の深い眠りの先には、恐ろしく静かな死の国がありました。夢の中で死の国へ誘われていた多田氏は、帰還をあきらめかけましたが、不思議に恐怖感がなかったといいます。ただ、今まで経験したことのない孤独感を味わっていたそうです。

翌朝目覚めたときには重度の障害者の自分を発見

明け方、夢から覚めた多田氏は事の重大さに気づきました。ベッドのそばで寝ずに見守っていた奥様に、「もう大丈夫」と声をかけようとしましたが、声が出ない。右手も動きません。手だけではなく、右足も動かない……。右半身のすべてが麻痺していたのです。
さらに、自分の体の変化を訴えようとしても言葉になりません。叫ぼうとしても声が出ません。そのときの恐怖はなにものにも比較できないくらい大きかったと述懐しています。
頼りないうめき声で助けを求め、身もだえするしかありませんでした。

予兆はあった。前夜ワイングラスが重く感じられた

実は、多田氏の脳梗塞の発作には予兆がありました。
発作を起こした前日(5月2日)、多田氏は病気の恩師を見舞うため山形を訪ね、その後、列車を乗り継ぎ金沢の友人のところにたどり着きました。その晩、友人とワインで乾杯したとき、やけにワイングラスが重く感じられたそうです。
「重くてテーブルに貼りついているようだ。なんだかおかしい」
それが予兆だったのです。
予兆はそれだけではありませんでした。翌朝、手洗いに行ったときも、手に力が入らない、しばらくすると元の感覚に戻ったそうですが、何となく不安を覚えて東京の奥様へ電話して体調の不安を告げたそうです。そして、その日に1回目の脳卒中の発作を漢方医の診察室で起こしたのは先述した通りです。

重い右半身の片麻痺と構音障害、嚥下障害

多田氏は「左の中脳動脈が詰まった脳梗塞」と医師から説明されました。命に別条はないと説明があったものの、右半身の完全な麻痺と高度の構音(こうおん)障害、嚥下(えんげ)障害などが多田氏に残りました。
構音障害とは声を出すための舌や軟口蓋(なんこうがい)などの器官をうまく動かすことができず、正しい音がつくれなくなる障害です。嚥下障害とはものをうまく飲みこめなくなる障害です。右半身の麻痺のため右肩や右腕、右足はだらりと下がり、構音障害のためひとこともしゃべることができず、嚥下障害のため自分の唾さえ飲みこむことができないため、よだれがとめどなく流れるという重度の障害をもつことになったのです。
多田氏が発作後、最も心配したことは、「もう以前の自分ではなくなっているのではないか」ということでした。もし、そうなっていたら自分は生きる意味を見いだせるのか、不安になりながら記憶力のチェックを自身で行いました。九九算でチェックを行った後、能楽に造詣の深い多田氏は謡曲の「羽衣」を謡い、難しい漢語の並んだ「歌占(うたうら)」をそらんじましたが、どちらも一言一句消えることなく頭の中に残っていました。
多田氏はこれまで健康に対して、誰にも負けない自信を持っていました。それは、定期健診を受けても、異常が見つかったことがなかったからです。傍目から見ても、ダンディな多田氏の姿から病気を想像することはできませんでした。

発作の半年後に自力で歩行。「寡黙なる巨人」の目覚め

初めは少しずつ回復すると思っていた発音も回復の兆しはありませんでした。それでもわずかな希望として、言葉の意味は理解できること、文章を作ったり、書いたりすることはできるということが多田氏を支えました。
運動機能に関しても改善を感じることができない多田氏でしたが、ある日、麻痺している右足の親指がぴくりと動きました。かすかな頼りない動きであるものの初めての自発的な運動でした。このとき、多田氏は「自分の中で何かが生まれている」と感じたそうです。
金沢医科大学病院に2ヵ月間入院した多田氏は、2001年7月に東京の都立駒込病院に転院しました。さらに9月には東京都リハビリテーション病院に移り、本格的なリハビリテーションを受けることになりました。
多田氏が初めて自力で歩けたのは、東京都リハビリテーション病院で訓練を始めて1ヵ月半が過ぎた頃です。脳梗塞の発作に見舞われてからすでに半年が過ぎていましたが、ゆっくりと第1歩を踏み出し歩けたのです。
脳梗塞でいったん死滅した部分の脳の神経細胞は、元に戻ることはありません。再生はしないのです。しかし、機能が回復するのは、新たな神経がつくりだされるからです。いままでの自分とはまったく違う何者かが歩き始めるのです。多田氏はその何者かを「新たな巨人の出現」と述べていますが、半年ぶりで歩けたときに「あの巨人が目覚めたのだ」とはっきりと意識したそうです。

発作後9ヵ月目で退院。リハビリするなか、生命力の回復を感じる

病院での生活に多田氏が別れを告げたのは2002年の2月です。発作から9ヵ月目を迎えていました。
自宅へ戻ってからは歩行訓練と言語機能回復のために病院へ通う日々となりました。辛いのは確かですが、一方で週4日のリハビリが楽しみになってきたそうです。それは生きているという実感、つまり生命力がかすかな速度で身体に満ち始め、回復しようとしているのが感じられたからです。

一律180日間のリハビリ制限に反対する「新たな巨人」の叫び

多田氏の見事な回復ぶりを世間に強く印象づけたのは、一部の病気を除いて障害者のリハビリを発症後180日間を上限にして打ち切るとした2006年度の診療報酬改定に端を発した反対闘争への決起です。発作後180日を過ぎてもなお筋肉の拘縮を予防し、筋力の維持などを目的としてリハビリに励む脳卒中の患者さんは少なくありません。
急性期のような目立った回復は望めませんが、リハビリを怠ると身体機能が低下すると身をもって感じていた多田氏にとって、この診療報酬改定は、患者、弱者を切り捨てること、そして、ゆるやかな死の宣告をも意味していました。
また、リハビリとは単なる機能回復ではなく、社会復帰を含めた人間の尊厳の回復と考えている多田氏にとっては、このときの診療報酬の改定は基本的人権を無視した人間の尊厳を踏みにじる暴挙と映りました。
そして、多田氏は、診療報酬の改定に対して自ら先頭に立って反対の声をあげたのです。
新聞への投書や総合雑誌への寄稿、さらにリハビリ日数制限の白紙撤回を求める約45万人の反対署名を厚生労働省に提出するなど八面六臂の活躍をしています。
確かにいまだ歩くこともままならず、声も出せないなど重い障害は残っていますが、多田氏の中に生まれた「新たな巨人」は政府と渡り合うまでに成長したのです。


参考文献:『寡黙なる巨人』多田富雄著(集英社/2007年7月発行)
        『わたしのリハビリ闘争』多田富雄著(青土社/2007年11月発行)

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