脳梗塞は時間との闘いです。

脳梗塞コラム

第5回 「奇跡の生還」を果たしたオシム前監督と脳低温療法

[2008.09.02.]

言葉もスラスラと話し、
重度の障害はまったく見受けられない

サッカー日本代表チームのイビツァ・オシム前監督(66歳)が昨年(07年)の11月16日未明、自宅で急性脳梗塞に倒れたのはまだ記憶に新しい。最寄りの順天堂大学医学部附属浦安病院に救急搬送されるまで1時間以上を要し、一時は「厳しい状況、命をとりとめてほしい」(川淵三郎 日本サッカー協会名誉会長)と発表されましたが、重度の障害を残すことなく「奇跡の生還」を果たしました。
マスコミ報道によると現在(08年7月)、オシム前監督は左腕がまだ不自由なものの、母国語のセルボ・クロアチア語はもちろん、英語、フランス語、ドイツ語などをスラスラと話し、記憶も思考もほぼ完全に回復している、とのことです。20年前のユーゴスラビア時代、サラエボで開かれた欧州選手権予選の試合展開やスコア、得点者なども正確に覚えており取材記者を驚かしたといいます。

「奇跡の生還」に貢献した可能性が大きい脳低温療法

驚異の回復は、なによりもオシム前監督が不屈の闘争心で脳梗塞に立ち向かったことからもたらされたものです。絶対に諦めず、病気に降参しなかった。かならず自分は昔の状態に戻ると信じていた。起きてしまった嫌なことは忘れ、リハビリをするときも常に自分の進化を信じていた、と語っています。
一方、オシム前監督の「奇跡の生還」により脳低温療法が大きな注目を浴びています。順天堂大医学部附属浦安病院に搬送されてから約10日間にわたって受けた脳低温療法によって脳浮腫が防止され、意識障害や記憶障害など重度の障害を免れたと報道されたからです。

脳の温度を2〜3℃冷やすだけで、
脳のむくみや有害反応などの進行が抑えられる

川崎医科大学附属病院脳卒中科教授 木村和美 先生

脳梗塞を起こすと脳は腫れてむくみ、脳神経細胞にダメージが加わります。脳神経細胞は死滅に至る過程に突入し、そのまま死滅すると重大な障害を招きます。
「しかし、脳浮腫やそれによる有害反応の進行は、脳の温度を通常より冷やすことにより抑えられる可能性が動物実験で判明しています。この事実に基づいて試みられているのが脳低温療法です」
こう指摘するのは川崎医科大学附属病院脳卒中科教授の木村和美先生です。
脳低温療法には水冷式ブランケットで患者を包むなどして全身を冷やす全身脳低温療法と、局所の頭や首のみを冷やす局所脳低温療法の2つのやり方があります。
「全身の脳低温療法は脳の温度を強力に低下させますが、集中治療室における全身麻酔など大がかりで多数の人手を要し、不整脈や感染症などの重大な副作用への十分な対策が求められるため、一部の限られた病院でしか行えません。一方、後者は冷却のための帽子を患者に被せるだけの簡易な方法で、副作用の出現はほとんどありません」
オシム前監督は前者の全身脳低温療法を受けたと報道されています。

一般の病院でも可能な局所の脳低温療法

もともと脳を冷やして治療するというアイデアは18世紀の頃からありました。しかし、あまりにも危険な治療法なので忘れ去られてきたのですが、日本大学医学部附属病院救命救急センター長であった林茂之先生が1990年代に安全な科学的治療法として甦らせたのが脳低温療法です。 確かにいまのところ脳低温療法の治療効果はバラツキが多く、唯一、その効果が科学的に立証されているのは、心臓や呼吸が一旦止まったものの、心臓マッサージなどで再び息を吹き返した心肺停止蘇生後患者のみです。急性脳梗塞に対する効果はまだ科学的に立証されていませんが、オシム前監督のような「奇跡の生還」を目の当たりにすると脳低温療法への期待は高まるばかりです。とりわけ一般の病院でも可能な局所の脳低温療法に大きな注目が寄せられています。

5℃の冷水で脳を冷やす。
脳ヘルニアによる直接死が3分の1以下に減少

局所の脳低温療法はヘルメット型器具を患者の頭に被せるだけで、重度の障害を回避させる治療法です。 「まず脳梗塞の発症後3日間、頭と首に5℃の冷水を回して脳を冷やします。4日目から10℃の冷水に切り換え、その後、冷水の温度を徐々に上げていき1週間で完了です」
すべての脳梗塞を対象に行うのではなく、脳動脈のうち内頸動脈や中大脳動脈などが詰まった患者や、あるいは間違いなくひどい脳浮腫を招くと予測される患者に行います。

局所脳低温療法の装置

木村教授らの研究チームが局所脳低温療法を行った患者グループと通常の治療を行った患者グループの治療成績を比べたところ、後者は出血性梗塞(閉塞した動脈が再開通時に出血する脳梗塞)が38%にのぼったのに対して、前者は5%にとどまりました。
「さらに決定的なのは、通常の治療を行った患者グループは脳ヘルニア(脳浮腫の最終段階)による直接死が50%に達するのに対して、局所脳低温療法を行った患者グループは14%にとどまっていることです」

木村教授らの研究チームが局所脳低温療法を行った患者グループと通常の治療を行った患者グループの治療成績を比べたところ、後者は出血性梗塞(閉塞した動脈が再開通時に出血する脳梗塞)が38%にのぼったのに対して、前者は5%にとどまりました。
「さらに決定的なのは、通常の治療を行った患者グループは脳ヘルニア(脳浮腫の最終段階)による直接死が50%に達するのに対して、局所脳低温療法を行った患者グループは14%にとどまっていることです」

治療成績比較

ダブルブラインドによる無作為化比較試験による検証ではありませんが、局所脳低温療法の大きな可能性をうかがわせる研究報告といえます。

脳低温療法は重度の障害を避ける有望な治療法の1つ

脳卒中はがんや心臓病に次いで日本人の死亡原因の第3位にランクされますが、寝たきりの原因の約4割を占め第1位にあげられます。中でも脳梗塞は年を追うごとに増え続けており、重度の障害を回避する治療法が切実に望まれています。
「脳低温療法はそのための1つの治療法として非常に有望視されており、試みる価値のあるものだと思います」
実際、川崎医大附属病院では麻痺や意識障害、失語症などに陥った脳梗塞重症患者が、発症24時間以内より局所の脳低温療法を行うことにより、杖をつきながらも歩いて帰宅したという症例を経験しています。
木村教授の研究チームはエビデンス(科学的根拠)を立証するため、今後も急性脳梗塞に対する脳低温療法の研究を進めていくとのことです。大いに期待できるのではないでしょうか。

取材協力およびデータ・画像提供:川崎医科大学附属病院脳卒中科教授 木村和美先生

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